6月14日
県大会が終わった。東北大会に進んだのは砲丸投げの先輩ただ1人。他の3年生は事実上部活引退となった。2年生を中心に部長や連絡係の選出、1年間の活動計画や新人大会の目標決めなど、ミーティングを数回経て、ようやく新チームの練習が始まった。とは言え、陸上競技は半分以上が種目練習であり、内容が大きく変わることもない。ひーひー言いながら2年生についていく毎日だ。
しばらくは大会もないので、きちんと休みの日があることがうれしい。高校生だからといって、学校が生活の全てではないからね。今日は平日だけど週1回の部活動がない日。10日ぶりにシエロに寄ってみる。
ドアを開けると、朋子さんの話し声がいつもより大きく聞こえてきた。珍しくビジネスマン風の男性がカウンターに腰かけている。一瞬、どう声をかけようか、今日はカウンターでなくテーブル席に座ろうかと考える。大したことでもないのに「想定外」には異常に弱いのだ。
「あら武志くん、いらっしゃい。」
「こんにちは。」
「ちょうど良かった。ここに座って。今あなたの話をしていたところなの。」
「こんにちは。君が武志くんか。けっこうイケメンじゃん。」
「あっ、こんにちは。長倉武志です。」
「僕は足立裕介と言います。朋ちゃんの同級生。つまり西野先生の教え子の一人。」
「ごめんね武志くん、同級生の一人に『西野先生のお孫さんが時々来てる。』って話したら、たちまちみんなに広がっちゃって。」
「武志くん、君、僕たちの仲間うちではすごい人気者だよ。いや、会ったこともないのに人気者っていうのも変か。今話題の人ってとこかな。ごめん、気を悪くした?」
「いいえ、問題ないです。今、ちょっとだけ『芸能人て、こんな感じかなあ。』なんと思っちゃいました。」
自分の居場所がちゃんとあることを知って、ちょっと安心。
「おっ、いいねえその切り替えし。武志くん十分大人だねえ。朋子が逆に育てられるんじゃないの?」
「痛いとこつくなあ。まあ、正直ないとも言えない。でも、西野先生の宿題、けっこう楽しいよ。」
「うん、おもしろいアイディアだと思った。くっそー、俺に宿題ふってくれたらなあ。」
「裕介はダメでしょ。あんた昔から言うことがコロコロ変わるから、武志くん混乱するよ。」
「それは言える。でも、コロコロ変わる言葉の中から、本当に使えるものだけ選んだらいいわけで、俺も結構貢献できると思うんだけどな。」
「もちろん、私が話すことだってすべて正しいかどうか自信あるわけじゃないし、武志くんが取り入れてくれるものがひとつでもふたつでもあったらそれでいいと思ってる。」
「じゃあ、俺もこの話に乗っかってもいいね。というわけで武志くん。君へのサポートはこれからチームで行うことにするのだっ!」
話が大きくなってきた。朋子さんと少し話をして生活をちょっとだけ変えることにしていたけど、足立さんの勢いだと、ぐいぐい何かやらされそう。大丈夫かな。
「で、朋子。今はどんな事教えてるわけ?」
「この間話したのは、『無理って言うと、ホントにそうなっちゃうよ。』ってこと。」
「うん、それって人生における究極の真理のひとつだね。武志くん、それ聞いて納得した?」
「はい、家族や友達にも聞いてみたんですけど、みんなそれは正しいと感じてるみたいでした。もっともうちの父は『不可能はなーい。』なんて脳天気な言い方でしたけど。」
「そうだよね。言ってはならない言葉ってけっこうあるよね。」
「無理っていう言葉以外にもたくさんあるんですか。」
「うん・・・怒りを増幅させる言葉、かな。」
「裕介、それじゃあ伝わらないよ。もう少しかみ砕いて説明して。例えばどんな言葉?」
「『くそっ』とか『このやろー』とか『ふざけんじゃねえ』とか、そんな類のことば。」
「裕介、温厚だからそんな言葉最初から使ってないんじゃない?」
「いやね、俺だって普通に感情ある人間だから、やっぱり怒鳴り散らしたい時もあるわけよ。まあ、年に1回あるかないかくらいだけどね。その時って、自分の感情が自分でどうしても抑えられなくなっちゃうんだな。『怒ってるから怒鳴る。』ってのも正しいのかもしれないけど、『怒鳴ったら、ますます怒りが湧いてきた。』というのが自分の中では真理をついてる。
おもしろくない思いをしている時でも、どこかで『あいつのこの行動が悪い。たぶん75パーセントくらい。多少自分にも悪い所はあったけど、でも、やっぱりあいつの方が・・・。でも俺もやっぱり悪いかな。』なんて自問自答してるわけ。ついでに『こんなこと言っちゃったら傷つくだろうな。嫌われちゃうかな。ここは我慢しようかな。』なんて相手のこともちょっとは考える。これって普通だよね。
ところがあーら不思議。『このやろー』とか『ふざけんな』なんて口に出した瞬間。『お前が100パーセント悪い。ほれ謝れ。いや許さん。もっと傷つけ。苦しめ。当然の報いだ。攻撃の手を休めてやるもんか。叩き潰してやる。』なんて気持ちになっちゃうんだよね。怒鳴ってるうちにどんどんエスカレートしていく感じかな。
それですっきりするならまだ救いもあるけど。いや、これですっきりしちゃだめだよね、うん。でも、言ってるときちょっとすっきりしてるかなあ。でも、あとで冷静になって『ああ、失敗したなあ。』って、大反省会。」
「年に一回でも、裕介が怒鳴り散らすってことが意外だわ。」
「朋子さん、こんな僕ですけど、嫌いにならないでくれますか?」
「ここで騒がなければね。」
「というわけで武志くん、怒りの言葉を口にすると、それも大声で怒鳴っちゃうと、怒りがどんどん溢れてくるからやめようねって話。」
「はい、気をつけようと思います。」
「でも、武志くんは怒鳴り散らすタイプでもなさそうだし、心配ないか。」
「足立さん、他に気をつけている言葉ってありますか?」
「そうだね。普通に学校で習うことだけど、『人の悪口はやめましょう。』とか『その人がいない所で悪口言うのは最低だ。』とか『バカって言うと自分がバカなんだぞー。』とか、当たり前のことだけど、実はすごく大切だと思う。実際、しっかり守ってる大人って少ないかも。」
「そうね、お客さんの中にも数人で来て何時間も人の悪口言ってる人もいる。あれって聞いてる方が滅入っちゃうよね。隣に座ったお客さんに申し訳ないな、って思う時ある。」
「おい、そう言えば武志くんに飲み物。」
「うわっ!話に夢中になって注文取るの忘れてた。何になさいますか?」
「俺、そろそろ帰るから。武志くん、また会おうね。今度は武志くんが考えてること聞かせてね。今日はおじさんのおごり。朋ちゃん、いくら? 武志くんのも一緒に。とりあえず、ケーキセットの値段で。差額は朋ちゃんのおごりで。」
そう言って、足立さんはそそくさと店を出ていった。
「足立さんて、おもしろい人ですね。」
「そうね、あまり辛いとか苦しいとか、泣き言や不満を言わない人ね。いつも不平不満を口にする人は接しててこっちも苦しくなるけど、その点彼はストレスなく友達でいられる人ね。実際のところどうなのかは本人にしかわからないことだけど。」
「そんな友達がいるって、いいですね。」
「そうよ。でも、裕介はもう武志くんの友達になった気でいるわよ。」